簡単!すぐ分かる【姫路城の歴史】歴代の城主や姫路城にまつわる不思議な伝説をご紹介!
世界遺産に登録されている姫路城は、国際的に美しさを称えられている建造物です。
そのほかにも、国宝や重要文化財にされている部分もあり、日本を代表する観光地となっています。その魅力を充分に理解するには、歴史を掘り下げてみるのもいいでしょう。
この記事では、姫路城が建造された歴史や関連人物などを解説していきます。
押さえておきたい「姫路城」基本情報
兵庫県姫路市にある「姫路城」は別名を「白鷺城(はくろじょう)」といいます。
1346年に赤松貞範(あかまつさだのり)が築城したという説があります。江戸、明治、昭和、平成と4回の大修理がなされており、壁や屋根瓦などが補強されてきました。
国宝や世界文化遺産に指定されていて、国際的な知名度を誇っています。なお、世界遺産となった日本のお城は姫路城を含めて5城だけです。木造のお城が世界遺産に登録された事例自体が少なく、観光スポットとして世界的な人気を集めてきました。
最初に姫山に砦を築いた「赤松則村・貞範」
※画像はイメージです
まずは1333年、鎌倉幕府への反乱に加わった赤松則村(あかまつのりむら)が姫山に砦を築きました。
そして、息子の貞範がその13年後、城を築いたとされています。その後、山名氏に城主を奪われた時期もあるものの、赤松氏とその味方が城主の時代が続きました。
「黒田重隆・孝高(官兵衛)」とお城
黒田孝高(官兵衛)普請の石垣
赤松氏側の武将だった小寺氏は長年、御着城(ごちゃくじょう)の城主を務めてきた一族です。16世紀中ごろ、黒田重隆に姫路城を任せました。
このことから、黒田重隆(くろだしげたか)が姫路城を築いたとする説が有力です。そして、14代城主の黒田孝高(官兵衛)は1569年青山・土器山で歴史的な勝利を挙げ、姫路城の名を高めました。
3層の天守閣を築いた「豊臣秀吉」
1580年になると、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が黒田官兵衛から姫路城を受け継ぎます。
このとき、秀吉は1年がかかりの大工事を経て姫路城を巨大な石垣で囲みました。また、地下を持つ外観3層で、内部が4階仕立ての天守も建造しています。
その後、秀吉は明智光秀を討って天下人への階段を駆け上っていきました。
このことから姫路城を「出世城」と呼ぶ人もいます。
現在の姫路城を築いた「池田輝政」
関ヶ原合戦後、姫路城を受け継いだのは池田輝政(いけだてるまさ)でした。輝政は徳川家康から、西日本における豊臣派の大名をけん制するよう命を受けます。
そして、その拠点として姫路城の大改修に着手しました。 このときに姫路城の外壁は白く塗られたとされています。現代でも多くの人が思い描く姫路城のイメージは池田輝政によって作られたのでした。
姫路城を完成させた「本多忠政」
西の丸から見える天守閣
1617年に城主となった本多忠政は、姫路城の増築をさらに進めていきます。まず、西の守りを固めるための西の丸が作られました。さらに三の丸もこの時期に完成します。
そして、現代にまで引き継がれる姫路城の完全な形態ができあがったのです。幕末に新政府軍へと明け渡されるまで、姫路城は徳川幕府の重要な拠点であり続けました。
難攻不落の「姫路城」実は不戦のお城!
姫路城を「難攻不落」と呼ぶ人も少なくありません。
たとえば、戊辰戦争時にも攻防戦が回避され、無血開城が行われています。歴史上、1度も敵の手に落とされたことがなく、地元の人々の誇りとなってきました。
ただし、そもそも姫路城は戦いに使用された経験自体がありません。安定が続いた徳川幕府の2半世紀を象徴している建造物なのです。
明治時代に取り壊されそうになった「姫路城」
江戸幕府が終焉を迎えた後、明治政府は版籍奉還を推し進めます。城主がいなくなった姫路城は荒廃し、取り壊しの計画も立てられていました。
しかし、中村重遠(なかむらしげとお)大佐によって姫路城保存の上申が当時の陸軍大臣だった山県有朋に提出され、姫路城の修理を訴えかけました。
このことで、姫路城は改修を繰り返しながら保存されていくこととなったのです。この中村大佐の功績を記念し、感謝の石碑が城内の菱ノ門近くに置かれています。
約25万人もの人々が携わった「昭和の大修理」
所蔵:姫路市立城郭研究室
過去4度の大修理の中でも、もっとも大規模になったのが「昭和の大修理」です。工事事務所が昭和10年に設立され、戦争をはさんで昭和25年には第1次6ヶ年工事が再開します。
第2次工事は昭和31年から始まり、完了するまでには8年を要しました。その間におよそ25万人もの人々が工事に参加し、姫路城の保存に貢献しています。この大修理で、姫路城の根幹をなしていた心柱が取り換えられました。そのほかにも、大天守を支えるコンクリ-ト地盤が築かれています。
日本初のユネスコ世界遺産に登録された「姫路城」
1993年、姫路城は世界遺産に登録されました。日本の建造物としては初の快挙となります。評価された理由は主に2点です。まずは「美的な完成度」の高さでした。ユネスコは姫路城の美しさを「木造建築の最高の位置」としたうえで、世界的にも貴重であると絶賛しています。
次に、「保存状態の良さ」です。17世紀の状態が好条件で残っているだけでなく、日本の建造物の個性的な構造も示していることから世界遺産登録に至りました。
不思議がいっぱい!「姫路城」の伝説
長い歴史を誇る姫路城にはさまざまな言い伝えも残されています。これらのエピソードも含めて、地元の人々から愛されてきたスポットだといえるでしょう。ここからは、姫路城の伝説を2つ紹介します。
播州皿屋敷の「お菊井戸」
姫路城の上山里丸にある古井戸。この井戸には、古くから怪談話が伝わっています。
約450年前のこと、姫路城の執権であった青山鉄山(あおやまてつざん)と町坪弾四郎(ちょうのつぼだんしろう)は若き城主を殺し、城を乗っ取ろうと計画していました。
城主の忠臣はその企みに気づき、鉄山の家へ「お菊」という女性を住み込ませ探らせます。お菊の活躍により、城主の命は守られますが、城は鉄山のものになってしまいました。
鉄山が城主となった後も、様子を探り続けたお菊でしたが、とうとう弾四郎に勘づかれてしまいます。
弾四郎は黙っていることと引き換えに、自分の妻となるよう迫りますが、お菊は首を縦にはふりません。
憎らしく思った弾四郎は、お菊が用意するはずだった家宝の10枚揃えの皿のうち皿を1枚隠し、「お菊が無くした」と騒ぎ立て、自分の屋敷へと連れ帰りました。
それでも、思いどおりにならないお菊に腹を立てた弾四郎は彼女を切り殺し、井戸へと投げ込みます。
それ以来、皿の数を数え1枚足りない、とすすり泣く女性の声が井戸の底から聞こえるようになりました。
お菊が投げこまれた井戸が、城にある「お菊井戸」だと言われています。
ジャコウアゲハの蛹
お菊が殺されてから約300年たったころ、城下には人が縛られ吊り下げられたような形をした怪しい虫が発生しました。人々はお菊の怨念が姿を現したと噂し「お菊虫」と呼びました。
この「お菊虫」、現在ではジャコウアゲハの蛹だと考えられています。
ジャコウアゲハは姫路市の市蝶にもなっているんですよ。
天守閣に祀られる伝説「刑部姫」
提供 姫路市
天守閣の刑部(長壁)神社にまつわる伝説です。なお、刑部神社は地元の神を祀っています。
刑部姫のエピソードはさまざまで、いずれの話でも姫路城天守閣に女性の妖怪が住んでおり、城主を悩ませてきました。刑部姫の物語はそのときどきの城主に対し、領民が抱いていた反感が表現されているとの説もあります。
歴史をより楽しめる「ARアプリ」「プレミアムオーディオガイド」も
姫路城では観光客に向け、「ARアプリ」「プレミアムオーディオガイド」などのテクノロジーも導入されています。
まず、ARアプリは端末にダウンロードした後で利用可能です。
そして、場内でARマーカーサインに端末をかざすとナビゲーションや映像を楽しめます。
次に、プレミアムオーディオガイドは資料室でレンタルできる音声案内の機械です。姫路城にゆかりが深い芸能人の声で、貴重な情報を教えてもらえます。指定のスポットでボタンを押すだけと、操作も簡単です。
姫路観光するなら「姫路城」の歴史にも注目
兵庫県姫路市は史跡や自然が多く、見るべき場所が豊富です。その中でも世界遺産に登録されている姫路城の眺めは際立っています。そして、姫路城の美しさはさまざまな人々の努力によって守られてきました。
その歴史を思いながら観光すると感動もまた格別になるでしょう。姫路城を訪れる際には、その歴史にも注目です。
施設名 | 姫路城 |
---|---|
住所 | 兵庫県姫路市本町68 MAP |
開城時間 | 9:00~16:00(閉門17:00) |
休城日 | 12月29日・30日 |
電話番号 | 079-285-1146(姫路城管理事務所) |
入城料 | 大人(18歳以上)1,000円、小人(小学生・中学生・高校生)300円、小学校就学前 無料 |
駐車場 | 無 |
HP | 姫路城【公式】 |
その他 | 近隣に有料駐車場あり お問い合わせ・ご予約の際は「姫路みたい」を見た。とお伝えいただくとスムーズです。 |
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